おっさんのつぶやき

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おっさんのつぶやき

かつて、当サイトには「おっさんのつぶやき」というコーナーがありました。

「おっさんのつぶやき」は、「おっさん」こと当社のご意見番が世相と花市場をからめてつぶやくという

コラムで、内容的にも古い話から最近のことまでと幅広くそして決まって最後に広島弁で締めくくる

スタンスした。(現在でも過去ログとして「hanamanブログ」にあります。)

 

また、「おっさんのつぶやき」はなかなか好評で、不定期更新であったにもかかわらず更新されると

社内や買参人の方と話をする時に話題にあがってくるほどで、斯くいう私も新しいコラムが更新される

すぐにチェックし楽しませていただきました。

しかし、この「おっさんのつぶやき」も4年ほど前に書かれていた方が退職され終了となりました。

 

現在はイチゴ栽培をされているみたいですが、最近になり今度は自分でホームページを立ち上げ

新しく「おっさんのつぶやき」を始めたと連絡がありました。

 

退職されてからのことやイチゴ栽培のことなど色々書かれていましたので、ぜひ興味のある方は

下のバナーから行ってみてください。

 

(バナーをクリックすればリンク先に行きます。)

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その45.最終章

人間同士の出会いに、いつか別れが訪れるように、物事には始まりがあれば、終わりの時がくる。3年前の7月に始まったこのコラムも今回をもって終了の時を迎えた。私が満60歳となり、9月末をもって定年退職となったからである。32年と10ヶ月の勤務であった。継続雇用という選択肢もあったが、私は妻とも話し合い、ここで自分の人生の区切りをつけることにした。

私の入社年齢は比較的遅くて27歳、東京で淡い夢を抱きつつ放浪生活(今風に言えばフリーター生活)をしていた私を、父がたまりかねて帰省をさせたのである。その頃、父は勤めをしながら、趣味で小規模な洋ラン栽培をしていた。それゆえ、親戚の大規模な生産農家の伝手を頼って、私の花満入社を依頼した。面接の際には、若くして他界された2代目社長(当時副社長)と、現会長(当時専務)が立ち会われた。その時聞かれたことは、「事務所と現場、どちらにするか?」と、「酒は飲めるか?」の2点であった。私は、躊躇なく「現場」を希望し、酒については「好きな方です」と答え、採用となった。実におおらかな雰囲気の会社であった。

それから約33年の花満生活については、このコラムでも何度も取り上げた。私が最初に驚いたことは、市場の仕事とは思えない「雑用」の多さである。年末の門松つくりに始まり、盆栽の針金掛け、畑の草取りや植木の剪定、夏場にはソテツの寄せ植えなどもやっていた、と記憶する。当時は、ほとんど営業活動もなく、入荷してきた物をセリにかけ、終了したら全員で掃除をするのである。あとは事務所にまかせで、現場の方は先輩のセリ人の指示で「雑用」となる。冬場は盆栽づくり、夏は山で草取りというのが定番であった。

一仕事済まして休憩時間になると、やたらとジャンケンをするという社風にも、びっくりした。現場は3つのグループ(当時は会場と呼んだ)に分かれており、それぞれ一人ずつ代表を出してジャンケンをする。そして、負けた会場は、自分の所属の社員から金を集め、パンとジュースを買ってきて全員に配らなくてはならない。買ってくるのは若手社員の役目であるが、金を出すのは皆平等なので、真剣勝負である。いい年をした男たちが、人目もはばからず大声でジャンケンをして奇声を上げている姿は、古き良き時代の花満を象徴する風景であったと思う。その日の仕事が終われば一杯飲み、時に詩吟を唸り、卓球やソフトボールの試合をし、社員旅行などもあった。少し後には、月一でゴルフの社内コンペなども長期に渡って行い、開催数も100回を越えていたと記憶している。今思うに、のんびりとした余裕のある時代であった。

過去を振り返ると、不思議と楽しい思い出ばかりがよみがえってくる。しかし、仕事の面で言えば、私の会社人生は順調とは言えないものであった。若手社員であった頃の、現場の業務中心の仕事からはじまり、一人前の市場人としてセリ台にあがるのに、13年も要したのだ。実際にセリをする機会も限られ、5年程度で自らセリを降板した後は、洋ランを中心とした営業のみの担当となった。会社の中での自分の位置付けに納得が出来ず、一時は退職を考えるほど悶々と悩んだ時期もあった。市場の中心となるメインのセリ人としての活動が出来なかったこともあり、私は自分の会社人生を、最後まで「裏方稼業」であったと総括している。

そのような「裏方」の仕事の一つであったが、物流研究会の事務局担当という仕事も体験した。鉢物を扱う市場を中心とした私的な組織であるが、8年の長きに渡る仕事のなかで、全国各地の市場関係のトップの方々との触れ合いをもち、国内のみならず世界各地に行くという体験をもった。事務局というのは、気配りの必要な煩雑な仕事も多く、当時は総会や視察旅行が近づくと憂鬱であった。しかし、今となっては、一般の市場社員とは異なった、得がたい機会をいただいたということに感謝している。現場の業務から始まり、営業で各地を廻り、最後は総務という事務所の仕事まで経験した、自分自身の会社人生に納得している。

長い会社生活を終えて定年退職となった今、不思議と寂しさは感じない。今の私は、これから何をやるかということで、頭が一杯である。30年前に父が建てた、古い鉄骨ハウスを片付け、修理して、新しい生活の場をつくろうと考えている。「親の介護」という問題も避けて通れない状況となっている。これからどのような形の人生となるかは、私自身も予測がつかない。定年退職というのは、期間の定まらない「人生最後の夏休み」であり、まだ開始のゴングが鳴ったばかりである。あわてず騒がず、じっくりと取り組んで行きたいと思っている。

一人で仕事をしていると、会社という組織の有難みがよくわかる。わからないことがあると、聞けば教えてくれる人がいるし、声をかければ助けてくれる人がいる。早い話が、一人だけの仕事だと、少し大きい物を動かすこともできないし、冗談を言ってなぐさめ合う相手もいないのだ。会社にいるということは、乗組員の沢山いる大きな船に乗っているようなものかもしれない。今の私は、手漕ぎの小さな船に乗っているようなものだ。油断すると沈没してしまうので、他の小船に乗っている仲間を見つけて、精神的にも物理的にも、助け合う必要がありそうである。そのためには、会社中心の人生から、地域社会の中での人生に、シフトをチェンジしなくてはならないようである。

最後にあたり、花満のホームページという形で、私の拙い文章を多くの方に読んでもらう機会をいただいたことに感謝し、私のコラムについて感想、助言、意見等をいただいた方々に、紙面をお借りしてお礼を申し上げたい。

ほんまは、ひとりひとりに御礼をせにゃあいけんのんじゃが、このコラムを挨拶の代わりにするけえのう。ほいじゃあ、お互い体に気イつけて、元気にやっていこうや!

その44.老い

今月初め、母や妹と介護施設を見に行った。現在入院中の父の受入先を探すためである。そこはリハビリ病院に併設されている施設で、一般病棟と認知病棟に分かれている。ピンクやブルーのカラフルな前垂れをした老人たちが、女性の介護士の指導で、椅子に腰掛けたままで、体操のごときゲームをしている。ボンヤリとした人もいるし、にこやかな人もいる。壁には彼らの書いた絵や書道が飾られており、部屋の雰囲気はまるで幼稚園の教室のようである。

施設を出てから、ふと気付いた。その施設の中で見る限り、女性が圧倒的に多いのである。この世の男女の比率は半々のはずなのに、長生きをするのは女性が多いせいだろうか。すると妹が言う。「うちのお父さんもそうだけど、男の人は気難しくプライドの高い人が多いからね。だから施設に入るのを嫌がるんじゃないの」そう言えば、女性は穏やかな顔の人が多かったが、男の人はボンヤリと無表情な人が目についた。女性は施設の生活に適応して、お喋りを楽しんだりしているが、男は孤独で寡黙になる人が多いようである。これが、男女の寿命の差の原因かもしれない。

少々下賎な話であるが、「メハマラ」という言葉がある。メは目、ハは歯、マラは精力のことらしい。未確認であるけれど、男はこの順番に衰えてくるということのようである。私自身、還暦を迎えようとしている現在、この言葉を実感している。老眼は進行して新聞の字がつらくなってきたし、歯も一部義歯となった。あちらの方も正直言って、はっきりと減退している。友人の中には、「わしはいつでもOK、バリバリよ」などと言う輩もいるが、私は全く信用していない。

つい最近、「皆既日食」ということがあった。南の島にツアーまで組まれ、日本中が沸いたものである。市場でも話題になり、青果や市役所の人にまで「あれ、けっこう見えましたよね」などと話しかけられた。私が見ていないことを告げると、「ええ!どうして見ないんです?」などと詰問される。家に帰って妻に言った。「あんなもん、なにがおもしろいんじゃろう?」―すると、「あんたは夢のない人じゃねえ」と、軽蔑に近い目線と答えが返ってきた。心の中で反発しつつも、私はドキリとした。「そういえば、今の自分は好奇心がかなり減退しているよな・・・・。」最近はまとまって本を読むこともないし、映画館に行くこともない。旅行に行きたいという気持ちも起きないし、カープの新球場にすら、まだ行っていないではないか!もしかしたら、一番気をつけなくてはいけないのは、「心の老い」というやつかもしれない。

「ほんまに年はとりたくないもんよ。ほいじゃが、気持ちくらい若う持たんといけんよのう」

その43.オバサン

先日、テレビの某番組で、大阪の街で中年の男を「おっちゃん」と呼ぶのはいいが、「おっさん」と呼ぶと怒られるよ、などと言っていた。考えてみると、それは広島でも同じことかもしれない。道を歩いていて、「そこのおっさん」などと声をかけたら、けんかを売ってるも同然。無視されれば運のいい方で、もしかしたら「誰に向かってものを言うとるんじゃい!」と怒鳴りつけられるかもしれない。このコラムの題名の「おっさんの○○」も多分に自虐的な意味合いがあり、「どうせ、わしはおっさんよ」という居直りでつけた題名である。自分で名乗ることはあっても、他人には言われたくない言葉なのだ。大阪では「オッチャン」がいいようだが、広島では「オジサン」というくらいが無難かもしれない。。
男性の「オジサン」に対して、女性を呼ぶときの「オバサン」という言葉には、もっと問題がありそうである。これはめったなことでは、女性の呼びかけに使用しないほうがいい。ましてや「オバン」などもってのほかである。少年の頃に、女性にものを尋ねる時にうっかり「オバサン」と呼びかけてしまったことがある。3人位の女性グループであったが、今思うに20代前後のうら若き女性であったと思う。「オバサンー?」と露骨に嫌な顔をされ、彼女たちに取り囲まれるようにして睨みつけられたという、「恐ろしい記憶」がある。子供でなかったら、「誰がオバサンよ!」と怒鳴りつけられたであろう。その時の私は「オバサン」という言葉以外に、知らない女性を呼びかける言葉を知らなかっただけなのだが・・・。いまから50年も昔の話であるが、いつの時代も「オバサン」という呼びかけは禁句なのだ。
毎年2月の終わりに、当地では「花の祭典」という催しがある。広島の花き業界を挙げてのイベントであるが、最終日には、会場に展示した花を、一般来場者を相手にセリにかける。(今年は会場変更のため中止)安い花を目当ての来場者は、ほとんどが「オバサン」である。毎回、大盛況となる恒例のオークションであるが、素人相手のセリであるから、その場で花を渡して、現金をもらう。その前にセリをする者はセリ落とした人間を指定しなくてはならない。「後の人」「こっちの女性」ですむ場合はいい。何人もが一斉に手をあげたらどうする?彼らは「前のオバサンが早い!」などとは間違っても言わない。「そっちの赤い服のオカアサン」「今度はこっちのオカアサンね」などとやっている。なるほど、これならオバサン達も嫌な顔をしない。少し若く見える女性だと「そっちのベッピンのオネエサン」となる。多少無理をしていると思っても、彼女はニッコリとして花を受け取る。「オカアサン」「オネエサン」という呼びかけにも問題はあるが、誰からも文句がでないのだから、これでいいのかもしれない

「どういうても、花の世界はオバサンでもっとるのは間違いないんじゃけえ、わしらも呼び方にゃあ気をつけんといけんよのう」

その42.犬の世界

昨年、父が倒れて以来、犬の散歩をすることが多くなった。父が飼っていた愛犬を、体が不自由になった父の代わりに運動させるわけである。朝夕の散歩は、家の近くの川土手筋を、同じルートで歩くことが多い。散歩をさせ始めてまもなく、私は彼(雄犬なので)の奇妙な行動に気づいた。川の傍の真っ直ぐなコンクリートの土手道を歩いている時、彼は必ず道をはずして、1度畑に降り、すぐにもとの土手道に戻ってくる場所があるのだ。何の障害もない平坦な道なのに、そんな意味のない行為をするポイントが3箇所あるのだ。(なにをこいつは考えとるんじゃ?)不可思議な行為であるが、これは犬の嗅覚に関係しているのではないか、という結論に達した。人間の何万倍も鋭敏な嗅覚をもつ彼らは、目よりも臭いの世界で生きているのである。人間には全く感じられなくても、その場所には彼にとって不快な臭いが残っているのであろう。これは彼に確認をとったわけではないので、私の勝手な推測である。

昨年の夏、彼を犬の訓練所なるところへ、2ヶ月位預けたことがある。雷や飛行機の音に異常に怯え、他の犬を襲ったり、散歩時に引っ張ったりーといった困った癖を少しでも、よくしたいという目的であった。短期間であるので、あまり期待はしていなかったが、2ヵ月後、引き取りに行って見ると、はたして彼は見間違うばかりにスリムになっていた。他の犬に吠え付くこともなく、「伏せ」や「待て」ができるし、何より散歩で引っ張りあげることをしなくなった。駄犬が名犬に変身、というほどではないが、予想以上の成果であった。「雷がなると、ひどく怯えて騒ぎませんでしたか」と所長に聞いた。すると、「そんなことはなかったですよ」と答え、こう付け加えた。「彼も男の子なのでプライドがあるでしょうからね」当然ながら、そこには、雌犬も沢山いるのだ。

動物の世界は、人が想像するより人間世界に酷似しているということか。これが猿になると、もっと人間くさくなる。以前、TVでチンパンジーのボスの跡目争いについての番組を見た。群れを率いるボスは、食物とメスを支配するだけでなく、外敵から守り、内部の争いも抑えなくてはならない重大な地位である。しかし、いつかは新旧交代の争いが起きる。ここで活躍するのが、群れの長老である。彼は力量を冷静に判断して、新しいボスを選ぶだけでなく、ボスの座を追われた古いボスが、争いを起こしたりしないよう、群れを円満にまとめていく。さらに、あとで彼がイジメにあったりしないように、フォローすることも忘れない。ここまでくると、人間世界よりも人間的なのではないか(!?)最近の日本の政界のお粗末な状況をみると、彼らの方が上等ではないか、とさえ思えるのだ。
我が家の愛犬の話に戻る。あれから10ヶ月が過ぎた現在、気弱でわがままな、以前のままのダメ犬に、彼はほとんど戻ってしまっている・・・・。

「ヒトもイヌも集団生活を経験せんといけんいうことよのう。そろそろアイツも、もういっぺん夏合宿にいれんといけんかのう」

その41.少年時代

それは今から50年位前、1960年代の初め、私が小学校の低学年のであった頃の話である。暑い夏の日の夕方、父が私を呼ぶ。「ひとっ走りしてくれんか」私はニッコリとうなずく。自転車に乗り、家から1キロくらい上にある小さな雑貨店まで走る。行きはかなりの坂道なので、私は汗びっしょりである。帰ってきたら、風呂上りの待ちかねていた父に頼まれた買い物を渡す。よく冷えたビールである。「やっぱり、よう冷えたビールはうまいのう」ご満悦の父の横で、私はお駄賃のアイスキャンデーをかじる。父以上にうれしそうに・・・・。

あの頃は家に冷蔵庫などなかった。氷が家にあるわけではないから、店のない田舎で冷えたビールを飲むのは一苦労だったのである。子供たちの好物のアイスキャンデーも、自転車の荷台に木箱を載せたオジサンが売りに来ていた。「チリンチリン」という鈴の音がすると、外に飛び出したものである。「パン屋のおじさん」もいた。自転車の荷台にパンを入れた木箱を高々と重ね、各家を回って売るのである。縁側に、所狭しと並んだ沢山のパンを見て、母がうれしそうに選んでいたものである。そのような、今では考えられないような商売が成り立つ、のんびりとした時代であった。

夕方になると、ある家に子供たちが次々に集まってくる。「おじゃましまーす。テレビ見せてくださーい」白黒の小さなテレビの前は子供たちで一杯、ヤギのような長い白髭をたくわえた家主は、子供たちの後ろで腕組みをして一緒に見ている。子供の目には、怖い顔の爺さんだったが、子供たちが来るのを嫌がるでもなく、やさしい人だったのかもしれぬ。山に自分たちの城(隠れ家)を作り、川で魚を取り、田んぼで相撲を取り、空き地で野球をするーというのが私たちの遊びであった。稲刈りをしたり、風呂を沸かしたり、という家の手伝いもあり、子供たちは忙しかった。

あれから50年、日本は豊かになったと言われる。TVや冷蔵庫など電化製品は普及し、誰でも車を持ち、街はきれいに整備された。子供たちは,TVゲームや塾がよいに忙しく、若者は携帯なしには暮らせない、という社会に日本は変貌した。あの頃は、街は汚く道路も舗装されず、着ている服も皆、粗末であった。食べる物も、今と比べると、ずいぶん質素なものだった。しかし、みんな健康であったし、隣に住んでいる人を知らない、などということない社会だった。あれは、貧しくとも「心豊かな時代」ではなかったろうか?もし、仮に50年前に、日本がタイムスリップすることができたら・・・環境問題、食料自給率、成人病、教育や社会の諸問題のほとんどは解決するのではないか、などと考えることがある。ところで、あの頃の花業界はどうだったのか?古い生産者に聞いたことがある。

「あの時代は、えっと作っとりゃせんけえ、汽車で市に持ってったもんよ。ほいじゃが、花の値段は、今とそう変わらんのんじゃけえ、ようもうかっとったよのう」

その40.花の心

花は植物である。植物には動物のように痛みや喜びの機能はないから、愛情や怒りの感情をぶつけても、何の意味もないに違いない。多くの人は植物についてそう思っているし、私自身もそう信じてきた。しかし、植物に対する世間一般のそのような「常識」は、根本的にまちがっているかもしれない、もしかしたら、植物には感情や心があるのではないか一そんな不思議な「夢」を抱かせる話を聞く機会があった。

3月の初め、市場関係の会合の、講演会で聞いた話しである。それは、60年代の米国において報告されたデータである。まず、植物を「うそ発見機」にかけて、その反応をチェックした。ドラセナを使い、電流を通して実験したら、意外な結果が出た。植物に危害を加えようとしている人間が近づいた時と、そうでない人間の時とで全く違った反応を示したのである。本気でやろうとしているかどうかさえも、わかっているような反応が出た。(人間の心がわかるのか?)次に、大豆とトウモロコシに音楽を聴かせると収穫量が20%も増えた。カボチャにクラシックを聞かせるとスピーカーの方にツルが伸び、ロックをかけるとツルが逃げるように伸びた。(植物は音楽に好みがある?)さらに、植物には光合成が必要だからというので、24時間明るい所に置いた。すると、逆に育ちが悪くなり、8時間ほど暗くすると、良く成長し始めた。(人間と同じく睡眠が必要なのか?)

こんな話を聞いたあとで、帰宅後に、いつものように温室のかたづけをしていた私は、ゴミ焼き場のそばのシンビの処分株の山に目がいった。枯れて茶色になった株の中に、埋もれるように一つだけ緑の葉が見えた。取り上げて見ると、葉が生きているだけでなく、小さな花芽まで付けている。「何というヤツや!」わたしは思わずつぶやいた。こいつは、鉢を抜かれ、外に放り出された状態でこの冬をすごしたのである。それでも枯れなかっただけでなく、花まで付けているのだ。人間で言えば、雪山で遭難して絶望視されていた人が、奇跡の生還をした、という感じだろうか。私は、さっそく鉢に植えて、ハウスの中にとりこんでやった。その時、「ひどいことを、しやがってー」とぶつぶつ文句を言っていたような・・・・・。

洋ラン栽培の生産者に、「いいものを作るには、葉と葉が触れないくらい、間隔を取って置いてやるといいですよ」と聞いたことがある。サボテンの大型生産者に「植物にストレスを与えないで作るために、立派な温室が必要なんです」とも聞いた。植物に、人間のような心があるか否かは別にして、花だって狭い場所に押し込まれるのは嫌だし、広くて明るい家に住みたいというのは、確かのようだ。ところで、奇跡の生還を果たしたシンビだが、あれから1ヶ月余りを経て、短いながらも、ピンクの花を開花させようとしている。

「花をいじめたら、ええものは出来んいうことよ。わしら市場の者も、あんまり花を粗末にせんように、商売をせにゃあいけんのう」

その39.介護

人は皆、この世に生まれたら、必ず死をむかえる時がやってくる。人の死亡率は100%である。そして、もう一つ忘れてはならないことは、人は死ぬまで生きなくてはならない、ということである。ここに「介護」という問題が生じる。核家族化が進み、親子が別世帯の家庭が多い今日、大きな社会問題である。

私は病室で父と二人だ。車椅子に座った父は、テレビの方を向いているが、見ているのかどうかは定かでない。時折眼を閉じて、軽い眠りに落ちているようだ。1ヶ月前の夕刻、自宅で倒れた父は、救急車でこの病院に搬送された。診断の結果は脳内出血、さいわい出血が少なく、早めに安定したため、大事に至らなかったが、重い後遺症が残った。脳の左側の言語をつかさどる部分が損傷したため、言葉を発する事ができない。加えて、右半身の手足が全く動かなくなったので、ベッドから起き上がることも、歩くこともできず、すべてのことに人の手を借りなくてはならない体になった。

父は昨年の1月に脳梗塞で倒れ100日余りの入院生活をした。その後のリハビリの成果もあり、歩行に障害はあるものの、自分で日常生活の用を足せるまで回復していた。父の年齢は現在86歳、昨年倒れるまでは病院とは無縁の人生であった。戦前から戦中、そして戦後と、戦火と激動の時代を生きてきたにもかかわらず、ただの1度も入院生活を経験したことがなかった。幸運であると同時に、非常に丈夫で健康な体の持ち主であった。

夕方に病院に行くと、大勢の患者が食堂に集まっている。車椅子にすわり、うつろな眼で、じっと自分の前に食事がくるのを待っている老人たちー私はその光景に接すると、自分自身の人生の最後を見るようで、やりきれない気持ちに陥るのである。「ピンピンコロリ」などという言葉がある。年はとってもピンピンしていて、ある日突然にコロリと死んでしまうという、「理想の死に方」のことらしい。妻や子供などの手を煩わせないで死にたい、と誰もが願っている。脳出血やガン、認知症や大きな事故などで、寝たきり状態や車椅子生活になる人は多い。望んで介護が必要な体になる人は、ただの一人としていないのだ。

今後、父の体はどこまで回復するのだろうか?いつになったら退院できるのか?少しでも話したり、歩いたり出来るようになるのだろうか?考えるほどに憂鬱になってくる。しかし、ものの本によれば、人間の脳というのは、将来を楽天的に考えるように出来ているようである。そうしないと、人間は生きてゆけなくなるのである。妻は私と違って楽天家だ。「そうなったらなったで、その時になって考えればいいじゃない」などと言う。だから、私も父の手を握って言う。「早う元気になって、家へ帰ろうで!」父の体は痩せても、手は肉厚で逞しい。

「何とか死ぬまでマメでおりたいもんじゃが、ええ知恵はないもんかのう」