おっさんのつぶやき

その38.話芸

先月、出張で東京に行った際に、寄席に入る機会があった。地方にいると経験できないことなので、いつかはと思っていたが、今回泊まったホテルのすぐ近くに寄席があったのが幸運であった。「池袋演芸場」である―行って見ると、開演30分前というのに、すでに長蛇の列である。立て看板に「柳家小三冶」の名前がある。某国営放送の番組でも取り上げられ、当代随一の人気落語家である。無駄をそぎ落とした話芸は、「昭和の名人芸」と言われるが、私は1度も聞いたことがない。開演前からこれだけの人が並んでいるのは、単に寄席ブームだから、というわけではないようである。

3000円の入場券を払い、地下に下りて場内に入るとすでに満席。立ち見も場所を探さなくてはならない、という状態。私は最後列の後ろの壁に寄りかかって見ることにする。座席は百席程度、立ち見を入れても150人は無理かな、という感じの小ホールだ。入れ替わり立ち代り、15分前後の持ち時間で芸人が出てくる。話のみでなく、ギターあり、踊りあり、歌あり、立ち見のつらさを忘れるほどに楽しめる内容であった。

開演して3時間、やっと本日のお目当て「小三冶」師匠の登場である。テレビで見たとおりの、坊主頭で痩せ柄のおっさん、魚屋のオヤジか、大工の棟梁といった雰囲気である。年の頃は60台半ばと言ったところか。「私は、大阪はどうも肌にあわないんですよね」などという話から入る。落語家はその日の舞台での「演目」を楽屋に入ってから決めるというが、彼の場合は舞台に上がり、その日の客に前置きの雑話をしながら、決めるらしい。この話を「まくら」というらしいが、これが実に楽しい。「イタリアのリゾート地」や「銀座の高級レストラン」でのエピソードに客の笑いが絶えない。すると、小三冶は客に釘をさす。「寄席ってのはね。笑いにくるとこじゃないんですよね。話を聞きにくるとこなんですよ」

20分くらい「まくら」が続いたあと、いきなり演目にはいる。何というのかは知らない。「泥棒に入って金を取ろうとしたら、その家の女将さんの口車に乗せられて、逆に金を取られてしまう」という話である。観客は完全に彼の語る古典落語の世界に浸りきっている。一見無駄話に思える長い前置き(まくら)の間に、聞き手の客の心をつかみ、その日の客の雰囲気をつかんだ上で、自然に演目の落語の世界に引き込んでいく。実に巧みな話芸である。マイクを使う必要の無い小さなホールで、話し手をまじかに見ながら、知らない同士がともに笑い、落語の世界に浸ることで不思議な一体感と安堵感が生まれている。これが寄席の魅力であり、人気の理由であろう。小三冶は言う「笑わせるのではない。思わず笑ってしまうのが芸だ」

「不景気な話ばっかりで、いっそええことがない時代じゃけえのう。たまにゃ気持ちよう笑うようなことでもせんと、やっちゃおれんよのう」

その37.不景気

最近、新聞を開くと必ず言っていいほど飛び込んでくる言葉、それは「削減」であったり、「解雇」であったり、さらには「赤字」「縮小」「倒産」などという文字である。世界的な金融危機により、円高、株安となり、日本経済が悪化衰退し、個人消費が低下した、ということであろう。一国の総理の立場にある人が、「百年に一度の不況」などと、現在の景気の落ち込みを煽るようなことを口にするから、ますます「不景気」の風が増幅されているようだ。

確かに、今はどちらを向いても景気のいい話は聞かない。世界的な消費の落ち込みと円高により、自動車や電機、半導体など輸出関連産業の、売り上げの低下と減益は大変な状況である。それにともなう社員の削減や、派遣労働者の解雇は、発表されているだけでも、膨大な数となっている。しかし、そうは言っても、「世界恐慌」の再来と言われるような状況に、今あるとは思えない。少なくとも、現時点では、街に路上生活者があふれているという状況でもないし、安い居酒屋に行けば仕事帰りのサラリーマンで一杯である。スーパーやコンビニ、デパートには、売れ行きは別にして、以前と変わりなく商品があふれている。

台風や地震の際によくあることであるが、被害の最も深刻な一部の地区の映像や写真を、テレビや新聞等で繰り返し見ると、その県や地域全体が大変な被害にあったような錯覚に陥るものである。国民全体が不景気を実態以上に意識してしまい、そのことがさらに不景気の風を煽っている、という側面も否定できまい。このような不景気ムードにあっても、順調に売り上げを伸ばしている業界もあろうし、逆風の中、落ち込みを最小限に抑えてがんばっている多くの企業も知るべきであろう。

花の業界もご多分に漏れず、世の不況の嵐の影響をまともに受けている。昨年から今年にかけて、おそらく全国の市場で売り上げのダウンという状況であろう。自動車等の輸出型製造業の減速により、広島の景気もよくない。当市場の年末の売れ行きは統計的には良いとは言えぬ数字となったが、洋ランなどギフト商品は、入荷多めにもかかわらず、極端な単価安になることなく、よく踏ん張ったと思う。売店筋に聞いてみると、「まあまあじゃたのう」という人もいるが、「高いもんは売れんよう」「仕入れを減らしたけえ、売り上げは落ちたのう」という声が多いようだ。当然ながら、売店の売れは市場に連動している。ある大型園芸店の社長はつぶやいた一「今年は厳しいかもしれん。しかし、今が最高のビジネスチャンスよ」

「不景気じゃいうて、落ちこんどっても、しょうがないよのう。こがいな時こそ、プラス思考でやっていかにゃあ」

その36.アメリカ人

目からあふれる涙をぬぐおうともせず、耐えている黒人男性の顔をTVカメラがとらえていた。何万人もの大群衆が笑いながら、泣きながら、一斉に抱き合い、握手をしている。これは、さきに行われた米大統領選、新大統領誕生の際のTV映像である。あのような全国民をあげての熱狂的な盛り上がりは、日本ではありえないことであろう。それは政治制度や選挙の方法の違いによるものであろうが、一番の理由は国民性の相違というべきではなかろうか。自分の感情や意見を積極的に表現していかないと、アメリカ社会では生きてゆけないのである。「沈黙は金」「以心伝心」などという言葉は、日本社会では生きていても、この国では存在しない。

ハワイやロスに親戚や知人がいることもあって、何度か米国を旅する機会があった。現地に行く前の私のイメージは、映画やTVの中で見た「大きなアメ車」であり、「プール付きの家」、ハリウッド映画の「ブロンド美人」であった。実際にいってみると、黒人、中国人、フィリピン人、メキシカン、ヒスパニック系、そしてポリネシアンやインデアンなどの原住民など、実に雑多な人種がおり、生活の格差も大きな国であった。この国の郊外には豊かな生活を営んでいる中間層が住んでいるが、大都会の中心部には旅行者が決して踏み込んではならない危険区域が、街のあちこちに存在しているのである。

彼らは概して親切であり、旅行者の我々にも気さくに声をかけてくる。ハワイ島の親戚を訪ねた時のことである。妻の叔母の運転手で観光に出かけ、道に迷っていた。すると、後からクラクションを鳴らして、車を横に止めて男が話しかけてくる。てっきり文句を言ってきたと思いきや、彼は道を教えてくれたのである。また、別の時に、スーパーの駐車場で鍵をつけたままロックしてしまった。修理を呼ぶが来てくれない。一見して原住民系とわかる長髪の男が近づいてきた。太い腕っ節の大男である。驚いたことに、彼は少し開いていた窓に指をかけ、腕力だけで窓を下げてしまったのである。そして、ろくに礼も聞かずに、彼は立ち去って行った。この二つの話、日本人は誰もがやれるだろうか?

国民性を表現するときに使われる、おもしろい例え話がある。世界各地からの旅行者を乗せた船が遭難したとしよう。沈没する前に、乗客を海に飛び込ませないといけない。船長はアメリカ人に言う-「飛び込むとヒーローになれますよ」ドイツ人には-「飛び込む規則になっています」フランス人には-「飛び込まないでください」そして、日本人には-「みんな飛び込んでいますよ」国民性というのは、これほど異なっているということである。明るい見通しの見えない世界的な経済不況、この状況を打開するカギは、やはりアメリカ経済の復活であろう。アメリカ人の不屈のフロンティアスピリットに期待したい。

「アメリカで車が売れんと、広島の街で花が売れんようになるんじゃけえ。やねこい時代になったよのう」

その35.初ゼリ

10月の初め、4人の社員の初ゼリが行われた。新卒あり、途中入社あり、一時退職後の再入社ありと、経歴は様々であるが、23歳から31歳までの若手社員達である。入社3年経過し、広島市のセリ人試験に合格した者すれば、セリ人資格が与えられる。今回の新人セリ人は、この6月に資格を取得した者ばかりである。新人のセリ人参加は、ここ3年位行われておらず、今回は一度に4人昇格ということで、市場は久しぶりに湧き立った。

初ゼリの前日に、先輩社員の指導で予行演習をしている彼らは、私には実に初々しく感じられる。機械ゼリとはいえ、セリ人操作機をたたき、設定値段を入れないと、セリは始まらない。相場感覚も必要であるし、声を出してお願いもしなくてはならない。売れる時はいいが、売れない時の機械ゼリはストレスがたまる。「押し売り」のできる「手ゼリ」の時代がなつかしい。わが社は現在でも、植木部門では手ゼリを行っている。その時のセリ人が、一番生き生きとして、いつもより格好よく見えるから不思議である。機械ゼリは間違いではなかったのか?今更ながら自問するのである。

セリを終えた新人の一人に聞いてみる。K君の感想「父ちゃんが見とるんで、すげえあがったス。でも、みんなよく買ってくれたスよ」新人のセリには、最初のセリ商品に鏡餅が付く。彼のセリには、出荷者の父の提供で、その上に地物マツタケ1パックが付いたという。(そりゃ、応札が多いのはあたりまえよ)4人の新人の初セリは順調に終了した。初めてのセリには、おおむね買参の応札はいいが、2回目以降はそうはいかない。いつまでもやさしくはしてくれない、というのが現実である。

セリ人はセリをするだけが仕事ではない。彼らは、これから生産者と買参人の間にたって、市場の営業の主軸になってゆく。産地担当は「市場の顔」である。市場を信用するというより、自分の担当者が気に入っているからそこに出す、という考えの生産者は意外と多い。そういう人は担当者が変ると、いつのまにか出荷先も変えてしまう。会社の看板を背負っての仕事とはいえ、担当者の個性と資質が問われるのである。市場は人材がすべてというより、人材しかない会社と言えよう。4人の新人がいかに成長していくかーわが社の命運が、彼らにかかっている。

「若いもんが存分に力を出せる会社にならんと、ええことにならんよのう。年寄りが、えっと口を出しちゃあいけん」

その34.蜂の一刺し

人間長く生きていると、いろんなことがある。今回は、ほんの1ヶ月前に私の身に起こった「恐怖の体験」について書いてみよう。その日、帰宅した私は家の周囲のかたづけをしていた。時刻は夕方7時頃である。畑に放置してある寒冷紗の束を移動しようと、抱え上げた時、「チカー」と、顔面を刃物で刺されたような激しい痛みを感じた。思わず抱えていた束を放り出すと、下から何か数匹飛び出してくる。大柄な足長蜂だ!やっと自分に起こった状況を理解し、駆け出した。(これ以上刺されてたまるか!)家に入って鏡をみると、眉間の左、左目の眉のあたりに、赤い刺し傷がある。急いで、虫刺され薬をつける。そのうちズキン、ズキンと激しい痛みが襲ってきたが、そのうち痛みはやわらいだ。しかし、刺し傷の周囲が赤くはれてきた。

帰宅した妻に、「医者に行ったほうがいいよ」と言われ、119番で紹介された市内の救急病院に行った。刺し傷を消毒し、破傷風の予防だという注射をうたれ、飲み薬をもらったのみ。よくわからない治療であった。(後日わかったことであるが、そこはあまり評判のよくない病院であった)帰宅後に、私はいつものように入浴し、ビールを飲み、食事をした。この時には、私の顔は元の人相をとどめぬほどに腫れ上がっていた。妻は私の顔をまじまじと見て、「人の顔って、こんなに変わるもんかねえ」と、人事(ひとごと)のように言う。しかし、わたしは以外に元気だった。(これなら、明日の朝には腫れもひいて、会社に行けるだろう)この時点で、わたしは蜂の毒の威力をなめていたし、これ以上ひどくならないだろうと、楽観していた。しかし、これは本当の恐怖の序曲だったのである。

真夜中に、私は異様な火照りと、息苦しさを感じて目を覚ました。視界がぼんやりとしている。不安になり、鏡に自分の顔を映して、息を呑んだ。(こりゃ、人間の顔じゃあないわい)顔の上半分が異常に肥大し、赤黒くなってパンパンに腫れ上がり、両目は埋もれて細い線となっている。人間というより、「トマトの化け物」―「醜いエイリアン」のごとき形相である。眼は霞んでいるので、指で目を押し広げないと見えない。私は妻を起こす。「目がよう見えん!」その間にも私の視界はどんどん小さくなって、自分の正面がかすんで見えるのみ。私はあせり、そして「失明」の恐怖を感じていた。もしかしたら、蜂の毒が眼球にまわって、一生見えなくなるのではないか!私は叫んでいた「救急車!」

朝の4時過ぎ、まだ外は真っ暗である。ほどなくやってきた白い車体に、私はよろめきながらも、自分で乗り込む。救急隊員が、年齢や症状、何時ごろ蜂にさされたのか、などと聞いてくる。私に見えるのは、車内にある室内灯の明かりのみ、多分3人いるであろう隊員の顔はかすんでしまって、人相の判別はできない。受け入れ先を電話で探すが、なかなか見つからない。大学病院に一人専門医がおり、「そのケースでは失明の心配はない。今の状態では冷やすしかない。夜が明けたら皮膚科の専門医にいくように」というアドバイスをうけた。私は安堵した。「冷やすだけなら、自分でやるから」と自分で救急車から降りた。それから、医者の開く9時まで、4時間余り、私は氷をタオルに包み、左右の目を交互に冷やす。冷やしていないと見えなくなるのだから、必死である。長い夜が明け、朝1番に皮膚科病院に駆けつけた。医者は私の顔を見るなり、感心したように言った。「だいぶ腫れたねえ」私から状況を聞くと、彼は自信たっぷりに答えた。「大丈夫!大丈夫!薬を出しておきます。2、3日で必ず治ります!」

 はたしてその後、私の顔は急激に回復。一晩寝ると、次の日には視界がほぼ回復し、翌日には出社できるまでになった。私の顔は、「宇宙人」のごとき状態を脱して、「人間の顔」になっていた。しかし、鏡を見ると、顔全体がふっくらとして、目は細く、いつもの私の顔ではなかった。出社した私をみた周囲の反応はさまざまである。顔を見るなり、笑い出す者。驚いて凝視する者。「どうしたん、その顔!」と聞いてくる者も多い。そのたびに私は「実は蜂にやられてー」、と同じ説明を何回も繰り返すことになる。次週になると、私の顔は完全にもとの姿に戻っていた。「やっと、戻ったじゃないですか」多くの者が声をかけてきた。しかし、ある女子社員が私の傍で独り言のようにつぶやいた。「前の方が、やさしそうな顔だったのにね」

「他人の不幸は蜜の味」などと言う。人は本質的に、他人の災難を喜ぶ動物なのかもしれない。しかし、いつも「対岸の火事」を楽しんでいるわけにはいかない。「明日はわが身」―蜂に顔など刺されないように、くれぐれも注意すべし!

「蜂も必死なんじゃけえ。人が気イつけんと、しょうがないよのう」
(治療をしてくれた医者の独言)

その33.交通事故

わが社は広島市内の中心部から外れた、西区の商工センターと呼ばれる流通団地にある。JRや電車の駅からは距離があり、車がないと不便な場所である。早朝や夜勤など多様な勤務体制のわが社の社員は、ほとんどがマイカー通勤である。私も入社以来、車を使用し、無事故無違反を長年通しているが、運転する限り交通事故は起こりうる。ほぼ1年前の私自身の人身事故の体験について記したい。

 平成19年6月某日午後5時頃、広島市郊外の交通量の多いK交差点で、私は横断歩道のある交差点を左折しようとしていた。正面の信号が青になった時に、左手から3人の女性が横断歩道を渡り始めるのが見えた。当然ながら、わたしはラインの手前で停止した。右手からは誰も渡ってこない。3人が通り過ぎ、続いてくる者がいないのを確認した私は車を発進させた。その時「ドン」という鈍い音車高の高いRV車なので前が見えない!(何か起こった!)あわてて車を降り、フロントをのぞく-そこには倒れた自転車と初老の女性!肘や膝から血が流れている!彼女はヨロヨロと立ち上がり、歩道へ歩く。私は急いで自転車を歩道まで移動する。車に戻り、ハザードランプを点滅させ路肩へ動かす。(彼女は自分で立っている、救急車はいらない)降りて話しかける。「警察を呼びますね」-女性はこっくりとうなずいた。(落ち着け、落ち着け、大した事故じゃあない)わたしはケイタイを取り出し、1,1,0と押す。

 「ジコデスカ、ジケンデスカ。」いきなり聞こえてきた。何?「事故ですか、事件ですか。」やっとわかった!私は事故の場所を伝える。ほどなくパトカーが2台到着。いきなり指示をうける。「車を向こうに移動して!」「運転免許証、車検証、保険証を見せなさい!」若い警官の指示をうける。「事故の発生時刻は?」覚えていない。「ケイタイを見ればわかるんじゃないの」(そうか、発進記録だ!)私は相手の女性がどの方向からきたのか、わからなかった。この時、立会いの警官から、相手の女性が右から来たことを知らされる。左からの横断者に気を取られて、再度右方向を確認することを怠ったのである。最後に警察より、相手の住所、氏名、℡、年齢が伝えられた。被害者は近くに住む、Yさんという61歳の主婦であった。

 実地検証は程なく終わり、私は女性の自転車を車の後ろに積み、彼女の指示するW整形外科に連れてゆく。診察の結果、幸い骨折にまで至らず、腕とひざの外傷のみであった。私は保険証にある緊急連絡番号を使って保険会社にかけ、事故状況を連絡した。その後、私は2度にわたって彼女の家を見舞いに訪れ、2回目には医師の診断書を受け取って、それを管轄の警察まで提出に行った。保険会社に保険申請書を提出し、保険金支払い通知を3度受け取る。事故からほぼ3週間後、自動車安全運転センターなる所より、1枚のハガキが届いた。そこには「あなたの累積点数は5点になりました」とあった。(あと1点で停止じゃないか!)事故の程度から、せいぜい3点程度の減点と思い込んでいた私はショックをうけた。早速、運転センターなるところに連絡した。「私どもは警察からの資料をもとに、判断するだけですからね。」という返事。管轄の警察に電話すると「私どもは資料を作るだけで、点数を決めるわけではないですから。」という返事。どちらにせよ、点数の変更などありようがないことはわかった。その後、検察の呼び出しや罰金の請求はこなかった。

 今にして思えば、意外に厳しい減点にはなったものの、命にかかわるような重大事故にならず、軽微な事故ですんだことに感謝すべきかもしれない。どんなに優秀なドラバーであっても、車を運転している限り、交通事故の可能性をゼロにすることはできない。突然の飛び出しや、反対車線からの車の進入による衝突など、避けようのない「運の悪い事故」というのもある。新聞やTVで連日報道される事故を見ても、私自身を含めて、いつ誰が重大事故を起こしたり、巻き込まれたりするか、わからないのが交通事故である。私たちに出来ることは、事故の可能性を出来るだけ少なくするような運転をすること。それは技術の問題というより気持ちの問題であろう。


 「ほんまに交通事故いうんは、やってもやられても気分が悪いけえのう。お互いに気いつけましょうで」

その31.もてる男

 広島県の東部、福山市から海のほうに向かって車で走ること約30分、鞆の浦という小さな港町がある。戦災にもあわず、大きな火災も免れてきたので、そこには江戸時代から続く家屋や風景が多く残されているそれゆえ、映画やテレビの撮影も、よく行われている。昨年の春、妻の付き合いで、この町に出かけたときの話である。

 私と妻は夕食をとるべくホテル近くの居酒屋に入った。テーブル席が二つとカウンターがあるだけの小さな店だが、ロケを終えた芸能人らがよく訪れることで、地元では知られた店である。席についてすぐに、妻が小声で耳打ちする。「H・Sがいるよ!」「誰?」「H・Sよ!知らないの?今朝のNHKの連ドラにでてたじゃない。」妻が目配せする方をそれとなく見ると、カウンターの角に、ツルツル頭の中年男が座っている。見覚えのある風貌である。彼はとなりの女性と話し込んでいる様子だ。私たちは食事をとりつつ、雑談に花を咲かせる。私は酒が入って、少しいい気分になっている。彼の連れらしき女性が席を立ってから、どちらともなく話が始まった。

 「仕事でこちらに来たんですか?」「京都のロケが早くすんでね。ここのママの顔が見たくて寄ったんですよ。」-彼は昔、女性のことでよく週刊誌を賑わしていた。「女性にもてるらしいですね」「いえいえ全然ダメですよ」-(うそつけ!芸能界の千人斬りとかいわれてるくせに!)今度は彼の方から話してくる。「女性は、少し太めの方がいいですね。痩せてると、苦労をかけてるみたいで。」-すぐには彼の言う意味がつかめなかった。彼はすぐ側にいる私たちの会話を、それとなく聞いていたのである。私が妻に、「そんなにいい気になって食べるから、デブになるんよ」と言ったことに対して、妻をかばいフォローしているのである。(なんという気配りをする男だ!)-聞いてみると、彼は私と同じ昭和24年生まれ、同世代であった。妻はちゃっかりと、ツーショット写真に納まり、いささか興奮ぎみである。

 彼はどう見てもプレイボーイというタイプではない。高収入のタレントでもなければ、長身でイケメンの俳優でもない。どちらかというと地味な、貴重な脇役という感じである。それなのに芸能界の「もて男」として有名である。私たちは店を出て、妻とホテルに向かい、夜道を歩く。私は少し嫉妬していたのかもしれない。「どうして、あんなのが、もてるんかのう」妻は、(何もわかってないなぁ)という表情で言う。「あの、さりげない気配りとやさしさ。あなたね、あんなふうな目で、じっと女の人をみたことないでしょ?」-私は何も答えられない。少し寂しかった。

 「もてる、もてん、いうのは生まれたときから決まっとることかもしれんで。あんまり無理をして格好つけても、しょうがないよのう。」

その32.携帯電話

 わが社では、2年前から営業のセリ人など、ほとんど全員に会社のケイタイが支給されている。市況や注文等の連絡は、これでずいぶんと楽になった。ケイタイのおかげで、生産者や売店に、いつでも迅速な対応ができるだけでなく、今では相対取引の処理や、鉢物の置場入力にもケイタイを使用している。さらに社内の重要な伝達事項もメールで流れてくる。現場の営業担当にとって「ケイタイを忘れたら仕事にならん」というほど大事な「商売道具」になっているのだ。

 私が学生の頃、一人一人が自分の電話をポケットに持ち歩き、いつでも話が出来る、など想像すら出来なかった。「もし、そうなればすごいことなのに」という「夢」の世界の領域だったのである。今から40年前の私の生活を見てみよう。広島市郊外の田舎から、東京という大都会に移り住んだ私の安アパートである。窓は隣の建物でさえぎられ、昼なお暗き四畳半、そこにあるのは勉強机を兼ねたコタツと、小さな本棚のみ、中古の扇風機回っている。そこには、テレビ、冷蔵庫、クーラー洗濯機など、何も置いてない。下着は洗面器で洗い、米は鍋で炊いた。そういう生活であるから、電話を部屋にもつなど、とんでもない話である。ほtんどの学生の生活がそんなものだったのである。

 では、電話がないのに連絡したい時はどうするか?大家さんに頼んで、呼び出してもらうしかない。でも、呼び出しが頻繁だと面倒がられるし、長話をしていると睨まれる。手早く用件をすまし、帰省したときは、土産の一つも買ってこなくてはいけない。公衆電話から、彼女の家にかける時は、極度の緊張を強いられる。不機嫌そうなオヤジがでてきたら、言葉づかいにも気を配らなくてはならない。「わたくし、同じクラスの○○と申しますが、○○さんはいらっしゃいますか?」-我々の世代はこうして、気配りとマナーと敬語を学んだのである。

 確かにケイタイは便利である。知らない場所で、知らない同士が会うなどという時に、頼もしい助っ人となる。「今,駅の東K口に立っているんですが」「はい、すぐそちらにいきます」-となる。わたしの息子などは、ベッドに寝転がって、「どうしたん?今なにしとるん?」などと、彼女とつまらん長話をしている。いつでもどこでも、相手と話しが出来るのは、すばらしいことである。しかし、ケイタイには煩わしさと危険性も同居している。いつでもどこでも、無遠慮にかかってくるのである。トイレに入っていても、おかまいなしだ。さらに、要らない情報、邪悪な情報も無秩序に流れる、という社会問題も発生している。今の時代、たまにはケイタイの電源を切って、自分を解放することも大切であろう。

 「なんぼ便利じゃいうても、ケイタイがどうしても好きになれんが、わしらの世代は多いんじゃないかのう」

その30.花って何?

 今年も何とか世界ラン展を見ることができた。メインステージの日本大賞のコーナーは、例年にも増してすばらしく、巨大株に無数の花を咲かせた、「豪華絢爛」という形容そのものの見事なものであった。私もラッシュアワーのごとき人波に押されつつ、写真におさめたのだが、近くで見るとカトレアも胡蝶蘭も見上げるほどに巨大で、周囲から「すごいね!」「きれいね!」と感嘆の声があがる

 「これでいいのだろうか?」私は見事に装飾されたランの競演の会場で、ふと疑念を抱いた。このような花をつくり、花を見るということは、現今の世の流れと違うのではないか、と考えたのである。地球の温暖化により、二酸化炭素の削減が世界的に求められている。原油の異常な高騰は、生産にも運送にも深刻な影響が出ている。このような厳しい昨今の現状の中で、このような高価なランのイベントを開催することは罪悪ではないのか。

 しかし、逆説的に言えば、このような厳しい現実があるからこそ、人はこのような華やかな催しを求めるのかもしれない。このラン展は、日常の喧騒を忘れて、夢の世界に浸るには最高の場所である。世界的に経済は落ち込み、異常な円高や物価上昇など、今の我々の生活をとりまく環境は暗い材料ばかりである。こんな時こそ人は「夢」をみたいのである。省エネの時代だからこそ、豪華なランの乱舞を見てゴージャスな気分に浸りたいのである。だからこそ、東京ドームにこんなにも人が押し寄せるのかもしれぬ。

 「花を見る」ということは、「夢をみる」ということかもしれない。日常生活に必須の衣食住の欲求や、金銭や地位への欲望とも違うものである。人は現実の中で生きなくてはならないが、暗く厳しい世界だけでは、精神的に参ってしまい、生き続けることができない。それゆえにこそ、この世に歌があり、芝居があり、「花」があるのだ。花をつくり、花を運び、花を売ることで生活の糧を得ている、我々花き業界の人間は、ある意味では、歌手や俳優と「同業者」であり、夢を売ることを生業とする「夢売り人」(ゆめうりびと)である。

 長い人生の中で、1年の始まりと終わりという、節目を大事にするという伝統は、日本人の中に昔から引き継がれてきた「生きる知恵」であり、日本が世界有数の長寿国となった一因ではなかろうか。「しめ飾り」や「門松」という習慣が廃れていっているということは、社会の変化とともに、日本人の心が変ってきたとも言えよう。正月、彼岸、お盆といった、1年の節目の行事に対する意識が、多くの日本人から失われた時、花の業界を支える大きな基盤もゆらぐことになる。そして、日本人の寿命も低下しているかもしれない。

 卒業し、結婚し、葬儀をし、墓参りをする——人の人生は、花に始まり花に終わる。喜びの花、悲しみの花―人生の節目には必ず花がある。花は食べることはできないが、人の心に「生きるエネルギイ」を与える、不思議な力があるのかもしれない。

「“夢売り人”いうと、ちいとカッコよすぎるかのう。
ほうは言うても、わしらもえらい仕事をやっとる思わんとやっちゃあおれんよのう。」

その29.新年

 年末のあわただしい繁忙期が終わり、新しい年を迎えた。現在は年末の活気がうそのようで、気候も市場も「厳寒期」となって、相場は冷え冷えとしている。年末の、花市場の混雑と喧騒はすさまじい。お歳暮商品を中心とした鉢物の入荷のピークを終えたら、切花の菊、バラ、百合、葉牡丹、洋ラン等の集中的な大量入荷がやってくるのである。そして、すべてを終えた止市の後で、場内外を大掃除し、台車を整理し、場内にケン縄を張り、しめ縄を飾り、6箇所のセリ台に鏡餅を供え、門松を立てる。これはわが社が、代々引き継いでいる年末のしきたりである。すべての作業が終わると、1年の仕事を終えたということで、安堵感とともに、すがすがしい気持ちで新年を迎えることになる。

 考えてみれば、年末の忙しさというのは、新しい年を迎える準備を、多くの人がするがゆえに、とも言える。切花では、若松、老松、千両、万年青など、鉢物ではシンビ、シクラメンなどのお歳暮商品と並んで、松竹梅、門松などが市場で販売される。これらの多くは、いわば「縁起物」の商品と言えよう。健康で幸福な人生でありたいという願いを、これらの「縁起物」に託すという、日本人が長年引き継いできた習慣である。

 当市場では、年末に「しめ縄」市も行われている。「しめ縄」は「輪飾」とも呼ばれるが、市場においてセリ売りにかけられるのは、全国的にも珍しく、毎年のようにマスコミの取材がある。しかし、このしめ縄の入荷量が、近年、目に見えて減少している。12月の中旬から下旬にかけて、5回しかセリはないのだが、2箇所ゼリで30分以内に終わってしまう。この原因は、市場への流通が少ないのみならず、消費量も以前に比べると激減していると思われる。早い話が、しめ縄を飾らない家が増え、マイカーに付けるのも、むしろまれである。「しめ飾り」は、新年を迎える「日本人の心の象徴」とも言える縁起物である。ウラジロは「白髪になるまで長生き」、ユズリハは「家を譲り子孫が続く」、ダイダイは「代々の繁栄」を、それぞれ意味している。過ぎてゆく年の悪しきことを忘れ、これから迎える年をより良いものにしようという心意気をも表している。

 長い人生の中で、1年の始まりと終わりという、節目を大事にするという伝統は、日本人の中に昔から引き継がれてきた「生きる知恵」であり、日本が世界有数の長寿国となった一因ではなかろうか。「しめ飾り」や「門松」という習慣が廃れていっているということは、社会の変化とともに、日本人の心が変ってきたとも言えよう。正月、彼岸、お盆といった、1年の節目の行事に対する意識が、多くの日本人から失われた時、花の業界を支える大きな基盤もゆらぐことになる。そして、日本人の寿命も低下しているかもしれない。

「昔から引き継がれてきたことは、大事にせにゃいけん。花が売れんようになったら、わしらが困るけえのう」