おっさんのつぶやき

その28.異常気象

 「今年は、なにがどうなったのか、わけがわからん。いままでの経験が全く役に立たん」-10月の半ば、高知の洋ラン生産者を訪ねた時に発せられた言葉である。今年のシンビの開花状況が、今までの経験で考えられる常識の枠を超えてしまい、熟練の生産者にも予測がつかないものになってしまったのだ。たしかに今年の8月から9月にかけては、全国的に記録的猛暑となり、10月に入っても、秋らしい気候と呼ぶには程遠い状態であった。このような異常な気候が、植物の生理を狂わせ、長年の生産者でさえも、理解しがたい生育状況を引き起こしたのである。

 今年の気候の異常はこれが初めてではない。この春に書いたコラムでも「記録的な暖冬」について書いている。「異常」も、あまり頻繁に起きると、そう呼ぶのがおかしくなる。異常気象が当たり前のことになり、日常化してしまったのである。これは地球全体の気象状況が大きく変貌し、いままでの気象データからの予測が追いつかなくなった、と考えるべきである。農業は、自然との闘いである。かつて、十数年前の洋蘭の大会で、ある市場の代表者が「生産者は、太陽と水と土を相手にするプロ集団である」という意味の挨拶をされ、その言葉に私も痛く感動したものである。しかし、最近の気象環境の変化は、長年の経験をもつプロの生産者の目をもってしても、花の生理や生育の判断を困難にしているのだ。

 気候の変化と自然環境は密接に結びついている。あらためて、自分の周りをみると、ずいぶんと変化しているのに気づく。私の住まいは広島市の郊外にあり、急速に宅地化が進んでいるものの、まだ周囲には田園風景が根強く残る住宅地である。しかし、今年の夏は蝉の鳴き声が、あまり聞こえなかったように思うのである。夜になると騒々しいほど鳴いていたアマガエルも、今年の夏は静かだった…。庭の草刈をすると、よく出てきた蛇の姿も、最近はとんと見かけない。そう言えば、妹が小さい頃に、学校の帰りに近くの川で捕まえた、大きな亀を持って帰ったことがあったが、もう長いこと亀の姿など見かけたことはない。私の小さい頃には、川にはハヤとかアカマツと呼ばれる大きな川魚が岩陰に沢山泳いでいたものだ。今は同じ川に魚影を見ることはできない。ほんの30年か40年前の話である。彼らは一体どこに行ってしまったのだろうか?いつのまにか、黙って、静かに消えてしまったのである。人間の生活が変化し、向上してゆく中で、結果として他の生物が生きてゆく環境を奪ってしまったのである。この異常気象は、彼らが生きてゆけない環境を、人が作ってしまったことへの、「つけ」がまわってきたのかもしれない。

「もういっぺん、むかしの生活に戻りゃあ、ええがにいくんかもしれんが、それもいたしいことよのう」

その27.東京にて

 私は再び練馬の居酒屋「K」にいる。上京の機会があると、出来るだけ立ち寄ることにしている。「懐かしさ」もあるが、この店のもつ「活気」が好きなのだ。相変わらず店は満席である。入って右の2列のカウンター席には、1人酒の男たちがぎっしりと並び、7つあるテーブル席には、職場の仲間らしきグループ、若いカップル、外人さん達など、老若男女交えて、実に多様な人間模様である。1週間の仕事を終えた男たちの、大きな声と笑いが渦巻き、店内は喧騒と熱気が充満している。私は、この店で偶然に隣り合わせた、ある大手企業の社員の話を思い出した。彼は地方の支店から、東京の本店の勤務になったばかりだった。「前は楽だったけど、今は3倍働かされていますよ」と、しみじみと語った。彼の話を聞いて、「東京で働くのは、本当は大変なことなんだ」と、その時、私は妙に実感したものである。この店は、大都会で生きる人間たちの縮図であり、「東京砂漠」のオアシスなのかもしれない。

 言うまでもなく東京は、日本の政治、経済、文化の中心であり、世界有数の近代都市である。昼間人口は2千万を超えるであろうし、京浜地区全体でみると3千万人の人口を擁する、巨大な経済圏であると言えよう。この街には、人間の欲する、金、仕事、名誉、性、食など、すべてを充足させるだけの、容量と大きさがあるのだ。それゆえ、若者たちは地方から、この街をめざしてくるのであろう。かつての私のように、いろいろな「夢」を求めて…。しかし、この大都市は人間が安心して住める場所とは言いがたい。食料と物資とエネルギーが、巨大な輸送パイプで安定的に供給されてこそ、多くの人間の生息が可能なのだ。もし、地震などの自然災害で、電気と輸送機関が停止したらーこの街に住む多くの人たちは悲惨な状況になるということは、容易に想像できる。

 今日は、いつにもまして客が多い。オヤジは客の采配と、モツ焼きに忙しい。「そこ1人つめてくれる!悪いね!」さっきから叫び続けている。時折、かたわらのカップ酒で、のどを潤す。私は、生ビール大とホッピー2杯を飲んで、いい気分だ。ふと目を上げると、壁に貼られた黄色いビラが目に入る。『Kちゃんライブ ボサノバとジャズのコラボレーション』などとある。「なんだ?こりゃ」気になった私は、帰り際にオヤジに尋ねる。「あれ何?どこでやるの?」「何言ってんだい!ここで生演奏やるんだよ!」「すごいね!」―やはり、このオヤジは只者ではない。以前、テレビの刑事ドラマの撮影をここでしたと言っていたが、今度は文化活動である。こんな人がいて、それに協力してくれる人も沢山いるーやはり、東京というのは、おもしろい街である。


「若い時は都会もええかもしれんが、歳をとって住むんは、やっぱし田舎のもんよのう」

その26.髪の毛の話

 私は髪を短く刈り込んでいる。人はこの頭を「坊主」とか、「ハゲ」とか言っているようだが、わたしはそれを認めるつもりはない。わたしの頭は何と言われようと「5ミリのスポーツ刈り」と主張しているし、理髪店でもそのようにオーダーしている。口の悪い同僚のM氏などは、人前もはばからず「ハゲおじさん」などと呼ぶが、決して愉快な気分ではない。髪フサフサの人が言うのなら我慢もしようが、同類の頭の人に言われたくないのだ。いつからこのような髪型(?)にしたか、定かではない。おそらく、20年位前からのように思う。正直に告白すれば、それより、さらに10年位前から私は自分の後頭部が寂しくなっているのを感じていた。手鏡を持ち、いかにしてそこが目立たないようにするか、髪を撫で付けていろいろと工夫したものである。うわさの「薬用養毛トニック」などというものに手を出したのもこの頃である。しばらく使用してみたが、やがて「無駄な抵抗」であることに気づいた。その養毛剤は、以前この欄に登場したNさんのお勧め品であったが、よく考えてみると、ほかならぬNさん自身が30代で見事な光頭の人であった…。

 苦悩の日々が続く中、ある日、私の脳裏に、すばらしい「ひらめき」が生まれた。「薄い部分を隠そうとするから無理がある。全体を薄くしてしまえば目立たなくなるではないか!」-これは我ながら、すばらしい発想であった。私はさっそく理髪店へ走り、「5ミリのスポーツ刈」と叫ぶ。彼は一瞬とまどって「こりゃ、丸刈りじゃないんかいの」とつぶやいていたが、ともかくバリカンで私の髪を落としてゆく。次の日、私はいつもより深く帽子をかぶって仕事をしていた。朝礼が始まり、やむをえず帽子を取る。私の周囲から「オオオ~」という、どよめきの声。さすがの私も、恥ずかしさで顔が「カア―」と熱くなる。しかし、何も心配することはないのである。人の目というのはすぐに慣れるのだ。3日もすれば、誰も私の頭など気にもしなくなったのである。

 振り返って、わが社の社員をみると、私のような頭が、けっこういるではないか。なかには明らかに「ハゲかくし」と推測される者もいるが、せっかく髪があるのにどうして?-と思える若い衆もいる。1度この頭をやってみると、その「魅力」に取りつかれるのであろう。ずいぶんと気楽な上に、ブラシ、ドライヤー、整髪料が不要で、実に経済的である。それに夏場に汗をかいた時には、タオルでひと拭き、さわやかで清潔である。まさに、市場の現場労働者向きのヘアスタイルと言える。「格好」と「見栄え」さえ気にしなければ、という条件付であるが…。そう言えば、「坊主と乞食は3日やったらやめられない」などという格言(?)もあるではないか。

「たかが髪の毛、されど髪の毛。ほうは言うても、ないよりあるほうがええよのう」

その25.市場の盛衰

 古い書類を整理していたら、園芸新聞の切抜きのファイルがいろいろと出てきた。なかに15年前(‘92)の花き卸売取扱上位市場のランキングがある。この当時の全国1位は梅田生花・大植、続いて大田花き、FAJとなり、わが花満も堂々の
10位、82億の取扱高である。これを昨年(‘06)の園芸新聞のランキングと
比較すると、花き市場の盛衰がはっきりと見えてくる。ほとんどの市場がこの当時より取扱高を落としているなかで、現在1位の大田花きは157%の伸びで296億という売上げとなり、2位のFAJも184%もの高い伸びである。わが社は残念 ながら、売上げの大幅ダウンと市場統合の影響を受け、昨年の金額は70億9千で 全国18位となっている。最も注目すべきは姫路生花で、‘92年当時は33億で
全国49位であったが昨年の売上げは81億で、245%という驚異的な伸びを示しランキングも全国15位に進出している。

 この15年という年月は、花き市場にとって大きな変動期となった。大田花きから始まった機械ゼリは、全国の主要市場に導入されることとなり、同時に市場間の合併と統合が急速に進んでいった。現在、取扱上位にいる、なにわ、豊明、鶴見、鴻巣、東日本板橋などは‘92当時には名前のなかった市場である。全国の花き市場の
取扱高のピークは‘98年の5675億である。昨年は4550億であるから、金額にして1125億減、約20%ものダウンとなっているが、最近の下げ幅は少なくなっている。

 札幌60%、鴻巣50%、福岡60%、これは私が最近、これらの市場の経営者の方に聞いた前売りの割合である。全国の市場において急速にセリ前販売は拡大している。その内容は予約、ネット取引、相対売りなど様々である。市場におけるセリ販売は確実に縮小し、同時に形骸化の方向に向かっていると言えよう。2年後の市場手数料の自由化により市場間の売上げ格差はさらに拡大し、統合と廃業がすすんで市場数は、さらに減少する、といった厳しい状況が予想される。

 米国などでは、一部に相対市場は存在するものの、日本のような花市場は機能しておらず、大型生産者や輸入業者が、量販店と直接に結びついた流通が主流と聞く。
世界的に見ても、日本のように市場のセリを中心に物が流れる、という形はむしろ
少数派である。小規模でも優れた生産者、商売熱心な花屋さんという形が主流であるからこそ、花き市場が存在できるのかもしれない。関東の某市場などは「街の小さな花屋さんを応援します」というスローガンを掲げている。

「作るのも、売るのも、こまかいところをかわいがっとかんと、市場はいらんようになるかもしれんで」

その24.アルゼンチンアリ

ある朝、目を覚ますと家の中はアリの巣になっていた。これは空想小説の話ではない。私の家で現実に起こっていることである。このアリは家の中、何処からでも湧きでてくる。台所、ゴミ箱、風呂場、トイレ、さらには犬や鳥のえさ箱の中にも。起き抜けに、昨夜残しておいた鍋物の蓋をあけたら、中に真っ黒になるほどアリが群れている!その時の、驚きと怒りを想像していただきたい。「こいつら、皆殺しにしてやる!」私は叫んだのである。
 アルゼンチンアリ?それって一体何の話?そう思う人がほとんどであろう。順序だてて話をしないと、とても理解してもらえまい。このアリは廿日市市など広島県西部と、岩国市にしか生息していない「外来生物」である。体調2ミリの非常に小さな種類なので、ちょっとした隙間があれば、どこにでも入り込んでくる。一つの巣に沢山の女王アリがいるので、爆発的な繁殖力を持ち、冬眠することなく1年中活動する。南米原産のアリで、10年以上前に、輸入木材などに付着してやってきたとされている。在来のアリのように土の中に巣作りをせず、ブロック、陶器、鉄板などの下や、枯葉、腐った木材などに巣を作る。人間には実害はないとされているが、油断をしていると傍若無人に家の中に入り込んで、食べ物に群がるという被害が続出するため、ここ2,3年は新聞やテレビでも取り上げられ始めた。しかし、いまだに行政からの取り組みは、ほとんど見られない。住民一人一人が、個人の力で「侵入してきた敵」と闘っているのが現状である。
 「アリは働き者」というイメージがある。私自身も、少年の頃にはアリは友であった。夏の日に、虫の死骸を引きずるアリを、いつまでも追いかけた日もあった。夏休みの宿題に、空き瓶の中に巣を作って、アリの観察を試みたこともある。それは日本に昔からいる在来種である、黒い大きなアリである。しかし、現在、私の住む廿日市地区で、この「善良なアリ」を一匹たりとも見つけることはできない。「邪悪なアルザンチンアリ」により、彼らは完全に淘汰されてしまったのである。今、この拙文を書いている時も、こいつらは私の脚を這い上がり、ときにチクリと噛み付いてくる!こんなやつらと人間は共存できないのである。

「こがいな、いなげなもんをほうっといたら、そのうち日本中にはびこって、ほんまにえらいことになるで!」

その23.8月6日

 最近は8月6日(原爆の日)を略して「ハチロク」という言い方が定着しているようである。この日、わが社には市場業務以外の大事な仕事がある。
広島市の平和記念式典の献花の準備である。前日(今年は暦の関係で8月3日)に
県内の生産者から、菊・小菊などの寄付をうけ、買参からはセリで購入した商品を
いただく。そして、それらの無料提供の花を、花満社員が、ほぼ同じ長さにそろえ
下葉を落とし、大束にくくって、水につけてゆく。その数、約1万本。
これが一般献花用である。それ以外に、セリ前に取っておいた5種1500本の花を使って、100個の花束を作る。こちらが来賓用の献花である。これらの花を
式典当日の朝6時、トラックで平和公園まで持って行き、広島市の担当者に納める。これが40年位前から、生産者と買参そして市場が協力して行っているボランティア活動である。戦後62年という時間の流れとともに、被爆体験者は業界にも少なくなり、原爆も戦争も風化している。そのような状況の中で、この活動が続いているのは厳粛な慰霊式の舞台を陰で支えている、という「誇り」のようなものかもしれない。
 

今から約40年前、私の高校の頃は戦後20年を経ているとはいえ、まだ戦争の跡が色濃く残っていた。平和公園の北側の河辺には「原爆スラム」といわれたバラックが川土手の一帯を占拠していた。広島城周辺は今日のように整備されておらず、軒先にあたりそうなほど狭い、舗装のない道をバスが土煙を上げて走っていた。校舎の立て替え工事では、被爆当時の遺骨が出てきたという話も聞いた。私が入社した当時
先輩社員のほとんどが被爆者であった。しかし、ともに仕事をしていく中で、被爆体験について聞くことはないまま、死亡あるいは退職により、会社を去られた。人は過去のつらい思い出は、無意識のうちに忘れようとするようで、私もあえて聞くことをしなかったのである。しかし、そんな過去の体験を残してゆく努力もまた、必要な事である。昭和20年3月、一兵士として東京大空襲を体験した84才の父は今、当時のことを執筆中である。

「わりいことは、はよう忘れたいけんのう。ほいじゃが、ちいたあ覚えといて、伝えちゃらにゃあいけんよのう」

その22.自給率

 東京都は1%、北海道は201%、そして広島は23%-これは何の数字かおわかりだろうか。県別の食料自給率である。東京や北海道の数字は予想できるとしても、広島の数値は意外なほど低い。日本全体でも40%にすぎない自給率だが、地域差はかなり大きい。概して北のほうが高く、南は低い。東北の4県は100%を越える自給率となっているが、南のほうは全般に低く、食の豊かそうな沖縄でさえ、自給率は28%にすぎない。

 食料の6割を海外に頼るということは、世界各地の水資源を買い漁ることを意味する。食料の生産には、大量の水が必要であるからだ。牛丼一杯分の肉の生産でも、1.8トンもの水が必要である。地球の温暖化により、異常気象は日常化してきており、日本への食料輸出国である中国やオーストラリアなどでは、水資源が枯渇している。このような状況の中で、食料自給率40%という現実は、実に恐ろしいことだ。TVで頻繁に放映されている「グルメ番組」や「大食い競争」にうつつをぬかしている場合ではない。食は人の生命維持の根幹である。長期的な展望にたった具体的な政策が早急に求められる。現在、日本の政治を司っている人たちは、「将来に渡って、国民を飢えさせない」というビジョンを持って仕事をしているのだろうか・・・。私が最近感じる一番の不安であり、疑問である。

 ひるがえって、わが花業界である。当市場における切花の輸入物のシェアは15%、まだまだ国産は主流である。しかし、全体量に占める広島県内産のシェアというと、20%にすぎない。ちなみに鉢物は29%という数値となっている。これは季節や品目によって大きく違った数値となってくるはずであるが、広島県の花の自給率は意外なほど低いのである。いずれにせよ、食料の広島県自給率と似たような数値となっているのは、同じ農業ゆえ偶然ではあるまい。「地産地消」が奨励され、地元で作った物を地元で消費することが「省エネ」の基本のように言われるが、県内産の花だけでは、花屋さんはできないようである。

「地元でつくったもんを大事にせえ言うても、県内のもんがえっとないんじゃけえ、どうにもならんよのう」

その21.居酒屋

 7月某日夜9時、東京、西武池袋線練馬駅をおり、私は居酒屋「K」に向かう。駅前の信号を渡り路地を入ると、大きな赤ちょうちんが見える。くすんだ紫の「のれん」を分け、立て付けの悪いガラスの引き戸を開けると、賑やかな笑い声と熱気。週末とあって、店内はほぼ満席である。前に4人がけのテーブルが7つ、右側には7、8人座れるカウンターが2列、40人も入ればいっぱいの店である。白い割烹着に、ねじり鉢巻き―いつもの格好で初老のオヤジが、炭火の前で串焼きを作っている。忙しく手を動かしながら、目を上げ、「おう、来たの」―無愛想に声をかけてくる。私はオヤジの指差すカウンターの中に空席を見つけ、両側の男の間に肩を押し込むようにして座り込む。―「生ビール大と煮込み!」

 ここは私の青春時代の思い出の場所である。よく友人達とここで飲み、語り合ったものだ。あれから30余年。東京の街もずいぶん変わり、きれいになった。私を取り巻く世界も、あの頃と全く違うものになった。しかし、この店は変わっていない。ホッピー350円、焼酎250円、煮込み330円、冷奴150円、もつ焼き80円etc・・・・・。黄色く変色したメニューが古びた板壁にずらりとかかっている。まるで70年代の東京にタイムスリップしたような、不思議な感覚を私に抱かせる。変わったことと言えば、60代の後半になったであろうオヤジの背中が曲がったことと、昔は夫婦2人だけだった店内に、4人のフィリピン娘が忙しく立ち働いていることぐらいか。

 さっきから、となりの席の坊主頭のおっさんが、私に話しかけてくる。同年輩であろう。私が広島から来たことを告げる。「おれは長崎の人間だよ。ずいぶん帰ってねえなぁ。集団就職でよ、15の時にバスで出てきたよ」東京は地方人の街である。私たちは昔話を始める。白黒テレビや「力道山」の」話等々。男が帰り、ふと気づくと、女の子が暖簾をしまい始めた。時間は10時45分、早い店じまいだ。私は勘定をすませ、立ち上がる。「オヤッサン、また来るわ」火を落としている手を休めて、オヤジが振り向き、手を差し出してくる。「元気でな」―乾いた固い手である。

「たまにゃ一人で飲むんもええが、酒は気の合うもんとワイワイやるんが最高よのう」

その20.広島人気質

 「どーなっとるんかのう。カープは弱いのう」-現在の広島の挨拶はこんなもんである。郷土の誇りである「広島カープ」は、セ・パ交流戦は12球団中で最下位。セリーグの順位も7月3日現在、ついにドンジリとなってしまった。あまりの成績に、いらだちと、あきらめと、ため息の入り混じった言葉があちこちから聞こえてきそうな状況である。

 「広島」というと、まずイメージされるのは「原爆」、そして「宮島」と「もみじ饅頭」、さらには「広島やくざ」も出てくるかもしれない。しかし意外に知られていないのが、「移民県」であることである。ハワイ、アメリカ本土、ブラジルなど海外移民が非常に多い。私の住んでいる廿日市市には地御前という地区があり、「アメリカ村」と呼ばれていたほど移住者が多い。私の義父もこの村の出身であり、ハワイに多くの親戚がいる。彼らの多くは、会社の経営者や医師、教師となって、比較的に裕福な「成功者」となっている。広島県人の結束力も強く、ハワイの日本語は「広島弁」とさえ言われている。

 もう一つ、ほとんど知られていないが、広島県は日本一「棚田」の多い所である。段々畑が多いということは、広々とした平野が少ないことを意味する。出張で九州や関東あるいは新潟などに行くと、どこまでも平地が続いており、広島の風景と違うことを実感する。花の世界においても、県内の生産者は技術的に高レベルであるが、栽培面積は他県に比べると概して小規模である。海外移民が多いというのも、狭い平地と、広島県人の「上昇志向の強い気質」が結びついた結果であると言えよう。

 カープは今日も苦戦している。9回の表、6対4、2点のリード。対戦相手の巨人は、ランナーをためて連打に次ぐ連打。あっという間に逆転されて3点差。ここまでテレビで懸命に応援をしていた父が、たまりかねて叫ぶ。「もういけん。切ってしまえ!」・・・・・広島県人は、決して気が長くない。どちらかというと、短気である。

「ほうは言うても、もちいとカープにがんばってもらにゃあ、広島の景気もようはならんよのう」

その19.団塊世代

 正確には、団塊(だんかい)の世代というのは昭和22年から24年生まれの人たちのことであり、その総人口は約700万人と言われている。戦後の第一次ベビーブームの総称としてとらえ、前後の年まで含めて言うと、約一千万人にも達する巨大な人口層である。「2007年問題」を持ち出すまでもなく、彼らの動向は日本の社会全体の関心事であり、これからの日本の消費動向と経済の行方を左右すると言ってもよかろう。

 私自身が昭和24年生まれだから、この世代のことはよくわかる。1クラスの人数はいつも50人以上、出席点呼に時間がかかったものである。学校給食は「脱脂粉乳」と「鯨肉」(若い人には意味不明かな)、漫画のヒーローは「月光仮面」と「赤胴鈴之助」、そしてスポーツのヒーローは「力道山」と「長嶋」であった。青年期に入ると「受験戦争」と「大学紛争」、漫画は「あしたのジョー」と「天才バカボン」である。音楽は「グループサウンズ」「反戦フォーク」そして「ビートルズ」であった。既成社会に反発した世代でありながら、会社においては見事に順応して「モーレツ社員」となり、高度成長を支える原動力となった。そしてバブルの崩壊、「窓際族」、リストラ、早期退職-それが団塊の世代である。

 退職後の時間の過ごし方に関するある国際的な調査によると、欧米では主に「ガーデニング」「旅行」「スポーツ」などが挙がるのに対し、日本は「再就職」の希望がダントツのトップであるという。「年金ではやっていけないから、働き続けざるをえない」のか、「働くことが生きがいと考えている」のか、その辺は定かではないが、いずれにせよ少々寂しい話であると思う。地球環境の悪化、格差社会、食料自給率の低下等々━現在の日本は、将来に全く明るいものが見えない時代になっている。彼らのこれからの生き方と、70年代の活力ある若者文化を生んだ一千万人のパワーが、少しでも若い人が希望のもてる社会になることに結びつけばいいのだが・・・。

「わしらあ、こまい時から損ばっかりしとるよのう。ほいじゃが、しまいぐらいは好きなようにしたいよのう」